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社会主義圏の経済

南の国が自国資源を統制し、工業化を進展させるにつれ、一方では北の保護主義に直面し、他方では相互の市場が品質・規格などの面からより適当であるため、相互市場の開放が重要となっている。第三には、南の諸国の多くは植民地制度や独ま期に人工的に国境線を引かれ、十分な経済的規模を有していないため、市場規模の拡大が必要である。第四に、南の諸国が発展の道を歩みはじめるにつれ、世界銀行など従来の北の協力でカバーできない地方的ニーズにそった小計画、中間技術を用いる計画などの重要性がましてきたことである。

これらの理由によって、今後もさまざまな地域的・機能的秩序の形成の試みは増大するだろうし、その積重ねの上に新しい世界秩序の姿も定まってくるだろう。一九八九年を通じて、「社会主義国」とよばれる国々には大きな激動が起こった。すなわち、東欧諸国では第二次大戦後四〇年以上にわたって続いた共産党独裁体制が軒並みに崩壊し、ポーランドでは「連帯」、チェコスロバキアでは「市民フォーラム」、ハンガリーでは「民主フォーラム」など市民や労働者勢力の主導する諸政党が権力をにぎり、政治的には複数政党制、経済的には市場経済制度の導入に踏み切った。

ルーマニアではチャウシェスク大統領夫妻が銃殺されて、新しく救国戦線と名のる市民諸勢力の政党が政権の座についたし、ブルガリアでは共産党が衣がえした社会党が、社会民主主義化の舵をとることになった。東ドイツでは九〇年三月の選挙で、多くの観測者の予測に反して保守三派が勝利し、東西ドイツ再統一へのレールを敷いた。東欧でかつての共産党が政権の座を守っているのはユーゴスラビアとアルバニアだけとなった。しかし、ユーゴも今日民族問題に大きく揺れている。アジアでは中国で八九年六月の天安門事件をきっかけに保守派と改革派の対立が激化している。また韓ソ国交樹立をきっかけとして、北朝鮮も金丸前副総理を招待し、日本との国交正常化に踏み切った。モンゴルでも改革派が政権をにぎった。

これらの激動の背後には、社会主義圏の総本山ソ連経済の弱体化とペレストロイカ(改革)の導入がある。本章では社会主義経済の現状と、その直面する問題をみておこう。アメリカの評論家の中には、ソ連・東欧の変動により社会主義制度は終りを告げ(「歴史の終焉」)、資本主義制度に経済体制は一元化するとする議論もあるが、事態はけっしてそのように単純ではない。ここではまず、計画経済がどういう条件の下で必要とされたか、いくつかの社会主義制度のなかで、中央集権的計画経済はなぜ機能しなくなったか、東欧変革の要因は何か、を検討し、社会主義経済制度が「終焉」したのかどうかを考えることにしたい。

資本主義と社会主義とは、経済的な観点からすれば大きく相違する制度である。資本主義とは市場において財サービスの需要・供給により価格が決定され、この価格にしたがって資本・経営力・労働力・天然資源などの生産的諸資源の部門別投入・配分が決まってくる制度である。この制度の下では、独占などにより市場メカニズムが攬乱されないかぎり、諸資源の合理的な配分が保障される。ただしこの制度は、諸資源の保有響にとっては有利であるが、生産的諸資源を十分に保有していない人びと(社会的弱者とよばれる)にとって有利であるとはかぎらない。この制度の下では、社会的強者(資本家。地主、技術者・熟練労働者等)と社会的弱者(未熟練労働者、工業技術と無縁な農民、農業プロレタリア、女性等)の格差が生まれ、拡大するのが通常である。

アジア通貨危機はなぜ起こったのか

タイに端を発するアジア通貨危機はなぜ起こったのか。その背景や原因を特定するのはそれほど容易ではない。盛んになされた議論をみても


  1. 国際短期資金移動説(流動性危機説)

  2. 新型金融危機説

  3. 実物経済限界説

  4. 金融制度未発達説

などさまざまな見解があり、それぞれが将来の通貨危機を回避するために、異なる方策を提案していたからである。このうち、①の国際短期資金移動説は、投資資金を海外の短期資金に依存していたため、いったん通貨不安が起こると大量の資金が流出し、その結果、資金不足(流動性危機)に陥ったという議論である。このことはあとで見ていく。②の新型金融危機説は、貿易収支に貿易外収支(保険、海運、観光などの収支)を加えた「経常収支」の赤字を、資本収支の黒字がカバーするのではなく、資本収支自体も赤字になり、ダブル危機に発展した事実を重視する議論である。

一方、③の実物経済限界説は、国内の産業がいびつな発達をとげたため、工業製品の輸出が中間財・資本財の恒常的な輸入を誘発し、輸出が伸びても貿易赤字が続く現象に注目した議論である。また、アジア諸国が電子部品の輸出に依存する同質の貿易構造をとっていたため、半導体価格の下落といった外的ショックが発生すると、アジア地域全体で連鎖的に輸出不振が起きた事実も重視する。最後の④の金融制度未発達説は、企業金融に占める銀行借入がきわめて高く、しかも、銀行融資のモニタリングがずさんであった事実を重視する議論である。なお最後の説は、国際基準から見た不健全な企業経営(ファミリービジネスなど)と合わせて、国際機関からは「アジア的なやりかた」として厳しい批判を浴びた。これらの議論はもちろん相互に関連している。何より、国際的要因が危機の大きな原因になっていること、一国レベルの政策ではもはや問題を解決することができないと認識している点で、共通していた。

わたし自身は、通貨危機の直接の引き金は①にあり、より中長期的な原因は④にあったと考えたい。もっとも、④については「アジア的なやりかた」に問題があったのではなく、タイのように経済規模の小さい後発工業国が、国内の金融制度の整備を十分進めないまま、「中進国」への仲間入りを目指したという点を重視したい。1988年以降の経済ブームの中で、タイ政府は産業投資の自由化を進め、重化学工業化の促進を図った。もしも、この重化学工業向け投資の大半を外国企業が担ったとすれば、直接投資がその資金源となる。しかし、投資を担ったのは外国企業だけではなく、タイの財閥や大手企業も含まれる。彼らが旺盛な投資を続ける限り、必要な資金は銀行借入か株式発行を通じて調達することになり、同時に国内で不足する資金は海外に依存することになる。実際、1990年代初めには、名目GDPに対する投資の比率は45%にも達し、国内貯蓄の35%との間には大きな乖離が生じていた(いわゆる貯蓄・投資ギャップの拡大)。

このギャップを埋めるためには海外資金に頼るしかない。一方、当時のタイの企業や銀行には、自国通貨建てで債券を発行するだけの信用力はなく、資金調達は外貨建て、とりわけドル建ての契約で行われた。中央銀行がタイの通貨を実質的にドルにリンクさせていたことも、ドルによる資金の調達を容易にした。では、資金の貸し手である外国銀行はどうか。外国銀行は1980年代後半から、手持ちの資金を、金利が低迷する自国の金融市場ではなく、海外で運用することを考えていた。そこで浮上したのが、アジア、ラテンアメリカ、ロシア・東欧など、成長が見込める新興市場(エマーシング・マーケット)であった。ただし、新興国はいつ通貨不安や金融不安に陥るとも限らない。

そのため、貸し付けにあたっては1年以上の長期ではなく、3ヵ月とか6ヵ月で満期を迎える短期貸しの方を選好したのである。このことを、資金を借りるタイ企業の側からみると、外貨建てで借りて自国通貨のパーツに転換して運用し(通貨のミスマッチ)、短期で借りた資金を、外国銀行の同意のもと「借り換え」を繰り返しながら、実際には長期に運用していく(満期のミスマッチ)、という方法をとったことになる。しかし、一旦通貨不安や企業への不信が生まれると、短期資金は一斉に引き上げられるリスクを持っている。新興国に特有のこうしたリスクを、国際金融の世界では「通貨と満期のダブル・ミスマッチ」と呼んでいる。

アジア通貨危機の考察
- isc.senshu-u.ac.jp - 専修大学

アジア通貨危機。タイバーツとドルペッグ制 - 株の学校
近い将来起こり得るかもしれないギリシャのユーロ離脱について考える上で、1997年に起きたアジア通貨危機(タイのドルペッグ制離脱)がとても良い教材になるのではないかと思ったので、少し調べてみることにしました。

妊娠という役割が不当に低く評価されている

生まれた子どもの遺伝上の母であり、妊娠・出産の母でもある。そして子どもを養育していく意志も能力もある。判決はスターン夫妻に養育権を認めるにあたって、スターン家の経済的な豊かさや教育にふさわしい環境を強調している。しかしホワイトヘッド家の状況もスターン家と比較すれば劣るかもしれないが、ごく普通の家庭なのである。それなのにメリー・ベス・ホワイトヘッドは、意志に反して子どもをスターン夫妻に引き渡さなければならないのだろうか。たしかに最高裁判決は、代理母契約は無効であるとしている。したがって契約を盾に、子どもの引渡しを求めることはできないという。

しかし「子どもの最善の利益」ということで、結局スターン夫妻に養育権が認められたのである。代理母契約の当事者を比較するならば、依頼する夫婦は代理母となる女性よりは一般に牒るかに上層の階級に属していて高所得、高学歴である。この判決のような基準で「子どもの最善の利益」を比較衡量するならば、ほとんどの場合依頼夫婦が子どもの養育権を獲得することになろう。妊娠・出産という九か月にわたる母の貢献、そしてその間に形成された母と子の絆。「子どもの撮善め利益」とは経済的な豊かさや知的な養育環境なのか、妊娠期間を通じて形成された母と子の絆なのかが間われている。

それでは体外受精型代理母で、依頼夫婦がともに生まれる子どもと遺伝的なつながりをもっている場合にはどうなるのだろうか。代理母は、子どもを九か月間にわたって自らの体内で育てるという、子どもの出生にとってかけがえのない貢献をする。しかし遺伝的なつながりはない。このような場合に、母とは遺伝上の母なのか、それとも出産の母なのかをめぐって争われたのがカルパート対ジョンソン事件である。裕福なカルパート夫妻は白人であり、妻は子宮を摘出していて妊娠できなかった。そこで妻と同じ職場で働いている黒人の看護婦アナージョソソンと代理出産契約を結んだ。夫妻の精子と卵を体外で受精させた受精卵で、ジョンソンが妊娠・出産し、夫妻の子どもを産んでもらうのと引き換えに、夫妻は一万ドルと医療費を支払おうというである。

しかしジョンソンは、妊娠七か月になった時に自分で子どもを育てたいと宣言、出産する前に子の養育権を求めて裁判を提起したのである。第一審の判決は、カルバート夫妻が、生まれた子どもと遺伝的な関係があるのだから、子どもの唯一の親であるとした。そして妊娠・出産したジョンソンの役割は、母親ができないときに好意から子どもの世話をした里親かベビー・シッターのようなものだと述べている。科学的、医学的な証拠である遺伝子分析の結果こそが、母であることを立証する唯一の正当な証拠であり、ジョンソンは子どもにとって遺伝的にはまったくの他人なのだから母ではないという。

この判決に対してジョンソン側が上訴し、一九九三年五月カリフォルニア最高裁判所は、ジョンソンは子どもに対して母としての権利はもたないと、下級審の判断を支持する判決を下した。六人のうちの五人の裁判官の多数意見は、誰が母なのか聚決めるにあたっての決定的な要素は、誰が自分の子どもとして育てる意志で子もめ出生にかかわったかということであるとレだ。本件で、カルパート夫人もジョンソンもともに生物学的には母であるが、自分の子どもとして育てる意志で子どもの出生にかかわったのはカルパート夫人であるとして、彼女を母と認めたのである。

ただ一人の女性であるジョイス・L・ケナード判事は、「妊娠という役割が不当に低く評価されてはならない。妊娠・出産は子どもをこの世界に産み出すための行為であり、妊娠・出産をした女性はたんなる保育器かおりなのではない』という少数意見を述べて、子どもを妊娠し出産した。これまではどこの国でも、子ど。もを出産した女性が母であるという原則が確立していた。アメリ力の判決は、母の定義を出産の母から遺伝の母や意志の母へと大きく変えたことになる。伝統的な母の定義は、生殖技術が発達してきた現在、時代遅れの原則になってしまったのだろう。

次なる発展のために

メイドの需要も相変わらず高い。政府は女性労働者の有効活用を打ち出し、結婚や出産後に退職した女性の再雇用を奨励しているが、既述のように社会的環境が不整備で、女性が仕事に出れば出るほどメイドの数が増えている。外国人労働者の増加にともなう問題は、政府が懸念することにとどまらない。一般のシンガポール人のなかに、労働許可証を持つ外国人を見下すような態度をとる人が増えているのである。冒頭のフィリピン人メイドが冷遇されるのもそうであろう。彼女らは同じ仕事をしているのに他の国のメイドよりも賃金がかなり低く、単純労働者の最底辺を形成しているといってよい。また最近増えている南アジアからの単純労働者に対して、「彼らが集まって建物を汚す」という市民の投書が新聞紙上に載った。新教育制度の下で、政府によって教育程度の優劣のレッテルを貼られるのと同じことを、今度はシンガポール国民自身が、外国人労働者に対して行ないはじめているように思えてならない。

政府による外国人単純労働者の扱いを憂慮し、人権問題として取り上げるグループも、シンガポール国内にはもちろん存在する。シンガポールのカトリック教会や一部の弁護士はフィリピン人メイドの救済活動に熱心であった。しかし、一九八七年五月~六月の治安維持法発動で、彼らのほとんどが逮捕されてしまい、それ以後活動は事実上ストップしている。女性団体AWAREは、活動の一つにメイドの人権侵害を掲げ、ヘルプラインという電話相談も受けつけている。しかし、AWAREのリーダーも家事はメイドまかせという女性たちであるため、問題追及の手は弱いようだ。外国人労働者を学歴や能力で歴然と区別するシンガポール政府。シンガポールにとって有用な人物は優遇し、それ以外は単なる「景気の緩衝装置」としてしか見ない彼らのやり方は、今後も続くであろう。一九九一年、シンガポール政府は、『シンガポールの次なる発展(The Next Lap)』と題する本を大々的に出版した。

豪華な装丁のA4判、全一五〇ページ余のこの本は、シンガポールの歴史や現状を美しいカラー写真や表などとともに説明しながら、次の発展に向けて何が求められているのかを国民にわかりやすく語りかけている。すべての国民が手にとれるようにと、英語版のほか、華語版、マレー語版、タミール語版も用意され、関係諸機関に無料で配られ、また書店には安価で山積みされた。善良な息子や娘たちが全霊を注いで互いに助けあっていかなければシンガポールの発展はない。国家の生存は彼らにかかっている。彼らに前進がなければ、未来はどうなるのだろうか?国民は私(政府のこと)とともにさらなる発展をめざそうではないか。これは本の冒頭に掲げられた。政府から国民へのメッセージである。人民行動党政府の「生き残りのイデオロギー」は、一九六五年の独立時も今も基本的に変わっていない。

政府が国民に求めるのは、シンガポールを経済的、社会的、文化的により繁栄させるための政府の政策への支援と理解であり、その目標実現のための愛国心と献身である。驚異的な経済発展を遂げ、先進国入りも近いとされるシンガポールの政治体制は、近年世界の注目の的となっている。以前は経済的な成功を称賛する記事が主であったが、最近では人民行動党の一党支配に批判的な記事も多い。すでに紹介した、販売数を極端に制限された「タイム」誌の記事は、野党党首ジャヤラトナムに対する人民行動党政府の扱いを批判したものであった。このような外からの批判に対する人民行動党政府の答えは、「アジアの民主主義は欧米の民主主義とは異なる」というものである。つまり、「アジアのほとんどの国は、植民地支配を経験し、その負の遺産を持って独立した。経済建設を進める上での困難さは、欧米各国とは比べものにならない。それに加えて、民族、人種、宗教問題、国境線の未確定など火種は尽きず、国家統一はままならない。

このような状況で、欧米流の民主主義を実践し、言論の自由などを無制限に認めたら、アジアのほとんどの国は崩壊してしまう。アジアでは、ある程度の独裁はやむを得ない」(人民行動党幹部の発言)。一九九〇年五月、東京で開かれたシンポジウムの席上、リー・クアンユーは「民主主義は普遍的な価値なのか?」と問いかけた。彼は、「戦後アジアの多くの国で民主主義制度が取り入れられたにもかかわらず、なぜ定着しないのか?」と問い、その答えとして次のように述べている。「西欧で根づいた民主主義体制は、アジアでは安定した政治を生み出さない。(民族、人種、宗教など多くの問題を抱える)アジアでは、まず、政治的安定が成功への前提条件である。そのためには、学習や勤勉が尊重され、評価されるような、法や秩序の整備が最重要となる。法と秩序の確立こそがアジアで最も求められていることであり、欧米の民主主義制度が求められているのではない」

国営イラン石油会社(NIOC)の設立

第二次世界大戦中に原油生産は減少した。しかし、戦後のヨーロッパの急速な需要増のため1944年以後、生産量は急増し1950年には3千万トンを超えた。第二次世界大戦後、各地で民族主義が高揚した。石油生産に関しても、石油収益の配分が不公平であるとの不満がイラン国内に充満してきた。このような時期の1948年には、ベネズエラが石油会社との間で、政府と石油会社の利益配分をそれぞれ50%とする新しい分配方法を定めることに成功していた。また、サウジアラビア政府もアラムコから同様な条件を獲得した。このような環境で、イラン政府とアングロ・イラニアン石油会社との条件改善交渉は一気に国有化へと飛躍していったのである。1951年4月、石油国有化法案が議会に提議され満場一致で可決され、国営イラン石油会社(NIOC)が設立された。可決後にイギリス人は全員退去し、残された油田や施設の操業はイラン人の手に委ねられた。イギリスはイランの石油が手に入らなくても、イラクやクウェートの増産により補うことができた。

そして、イランの石油を市場から締め出すべく世界の石油会社に対してボイコットを働きかけたのだった。ペルシア湾には英国の軍艦が配備されイラン石油が輸出されることを阻もうとした。この時、唯一イランの原油を買い付けにきたタンカーがあった。それは、日の丸を掲げた出光石油の日章丸であった。出光はガソリンおよび軽油約2万2二千キロリットルを満載して1953年5月川崎港に帰港した。これに関して英国のアングロ・イラニアン石油会社は積荷の所有権を主張し、法廷闘争に持ち込んだが、後日この訴訟は取り下げられ出光の勝利に終わった。この日本の一会社の行為は先進諸国の横暴に一矢を報いた快挙であった。イランの年配の人々はこの歴史的な事実をいまでも覚えており、対日感情にいい影響を与えてきたのである。イランは石油の国有化を成し遂げたのであるが、販売経路を失った石油はイラン経済を混乱に陥れてしまった。イギリスは国有化により損失を受けたため国際裁判所に提訴し、両者間で法廷闘争が続いた。

ここで、アメリカのCIAが策略をめぐらしたのである。CIAの工作によりモサデク首相が失脚に追い込まれる。そして、レザー・ジャーの息子のパラヴィー国王がアメリカの保護のもとに権力を取り戻した。そして、イランの石油生産を正常化させるためにアメリカの提案でコンソーシアムが結成された。石油のオーナーは国営イラン石油会社(NIOC)であり、収益の半分を得る。残りの半分をコンソーシアムのメンバーであるアメリカ、フランス、オランダ、イギリスの参加石油会社で分配するというものであった。メンバー構成とそのシェアはアングロ・イラニアン石油会社40%、ロイヤルダッチ・シェル14%、フランス石油6%、アメリカのガルフ、モービル、スタンダード・ニュージャージ、ソーカル、テキサコが各7%、イリコン・エージェンシーが5%であった。ここに、イラン国営石油会社がコンソーシアムの手を通してやって操業できることになった。また、イランの石油に対するイギリスの独占体制が崩れたのであった。

アメリカはCIAを使ってクーデターを起こさせてイランの石油事業に参入していったのである。この構図は今回のイラク問題と共通するものがあることにお気づきであろうか。1990年代末からロシア、中国等々がイラクの石油開発の利権協定を次々と結んでいった。遅れをとった米国がなんとかこれらの利権に食い込むには、イランのモサデク内閣を崩壊させたように、フセイン体制を崩壊させ、親米政権を樹立することがベストな方法だったのだ。コンソーシアムはイラン南部の特定地域における探鉱・開発・精製・輸送の権利を獲得した。契約期間は25年間であり、各5年間の期間を3回延長することができた。NIOCは石油資源のオーナーであることが確認されたが、コンソーシアムは契約期間中、何の制限もなく操業することができた。

イランの石油国有化は達成されたというものの「イラン人の手によるイラン石油産業の経営」は有名無実となってしまった。こうしてコンソーシアムによるイランの石油支配が始まったのである。ここで、中東産油国の石油支配をひとつの表にまとめたものである。アングロ・イラニアン石油会社はイラン・イラク・クウェートで、ロイヤルダッチ・シェル社はイランとイラクで、ガルフはイラン・イラク・クウェートで、ソーカルはイラン・バーレーン、サウジアラビアで石油利権を手にしていた。そこで、重要なことはイラン・コンソーシアムにはすべての石油会社が参加したということである。つまり、国際石油資本いわゆるメジャーズがイラン・コンソーシアムで会合をすれば中東全域の石油生産を、ひいては市場を、価格をコントロールできるようになったのである。1955年における世界の原油生産量に占めるメジャーズのシェアは92%という高い率であった。

誰にとってもたいせつな道

翌日、北へ向かい、山稜の鞍部を越えてザンユー村に着く。一四世帯のうち、一二世帯は焼畑と水田の両方をいとなんでいる。二十数年前に始めたという猫のひたいほどの棚田は、沢ぞいと谷の奥まったところにある。水はもう落としてあって、腿くらいの高さの稲は黄色くなった穂をつけ、収穫を待つばかりだ。一一月一日、山脈の裾を北上した。真っ青な秋天に鷲が舞っている。山脈からソマイ川の方へ張り出してゆくてをさえぎる支稜を越え、山の肩に民家がしがみつくボックヴガン村に泊まった。次の日、北側の谷へ下る急坂の途中、雨季に来たときすべって左の肋骨を打ちつけた大石が、すっぽり取りのぞかれているのに気づいた。

「ここには、あなたがけがをした石があったでしょう。ボックヴガン村のラモック・ギュンさんたちが、山道の草刈りや地ならしをしたとき、それをおぽえていて掘り出したんですよ。また誰かが痛いめにあわないために」コモー・キャンプから同行する、小柄ですばしっこいボック・ノー軍曹が立ちどまって説明した。わたしは、木の根みたいな足と手をしたラモックさんと、ソバの種子を平石の上で挽いていた白髪の老母を思い出した。「誰にとってもたいせつな道だしね」と、モクー・ノーが笑顔で応じた。山の道には、その地に根ざして生きる人たちの温かい血が通っている。踏みならされ、人の手が入れられることで、道は保たれているのだ。これまで長い年月にわたり、どれほど多べの人びとが山の道に関わってきたのか、思ってみるだけで気が遠くなる。ジョモー村に泊まったあと、ゲエー・カムさんとは別れ、ハンガオ地区行政主任ラロック・ダオ・ギュンさんやボック・ノー軍曹たちと、さらに北へ進んだ。

ボックヴガン村のある支稜から南側がコモー地区(フーガ村、二一六世帯、男四七一人・女四七〇人)で、北側がハンガオ地区(一四村、八八世帯、男三四七人・女三六三人)だ。ハンガオ地区の方が地勢が険しく、棚田を開けるような谷間もない。ンマイ川峡谷そのものがぐっと狭まり、両側の山脈から派生する巌の多い支稜が、急角度でひしめき合い迫っている。支稜と支稜の間は、澄んだ谷川に浸食されて切れこんでいる。一一月四日、ジョモー村からチュガム、コンコー、バロン、ラッアといった村々を通って北に向かった。ジョモーはハンガオ地区では戸数二一と一番多く、それからは二、三、八、五とどれもごく小さな集落である。支稜の傾斜がいったんゆるまったあたりに、竹林と民家が肩を寄せ合っている。ミカンの木には酸味のまさる小ぶりの実が熟しかけている。

村から村へ歩くには、急な山腹をたどり、足場の悪い急勾配を谷へ下り、支稜の胸を突く稲妻型の道を登らなければならない。昼間の陽射しは強く、汗びっしょりになる。途中、右斜めはるか下に裴翠色したソマイ川の淵が見え、「竜が棲んでいそうだな」と、モクー・ノーが目を瞳った。ヴォミット村に着いたときは、もう夕暮れだった。峡谷の方へ岬のように突き出た支稜の端に、家が三軒寄りそっている。ソマイ川対岸の山脈の上部にだけ夕陽があたり、チ・ツゴー山(約三九八〇メートル)の恐竜の背に似た岩峰が、暗赤色に染まってゆく。山腹から峡谷の底までは、南北に延びる巨大な影のなかに沈んでいた。次の日、谷ひとつ渡って、ウォッエー村に着いた。ここで、わたしはまたマラリアに罹り、一週間寝こんだ。氷のような悪寒とふるえと高熱に見舞われた。朝晩の冷えこみもつのり、一一月七日、峡谷をへだてたチリン山(約三七〇〇メートル)の頂きに初雪が光るのを見た。一〇日から一一日にかけて、雷とともに氷雨が降った。朝、遠くの雪が白さを増しているのに気づいた。

一一月二日の午後、ウォツェーを後にした。さらに北へ、山と谷を歩き、三日後、ハンガオ地区北端のレー村に着いた。病みあがりの体に山歩きはきつく、急坂は休み休み登った。ここから北のソマイ川西岸、直線距離で五〇キロ近くの間に村はなく、その先からまたぽつぽつとあらわれるそうだ。東岸には上流の方に向かって村が点在し、ソマイ川支流のラキン川ぞいにも、同じようにして村があるという。しかし、レー村以北は両岸とも現在、ビルマ政府軍の支配下に置かれている。住民はラワン、リスー、マルーの人びと。だが、プ・タ・オ地方やクラン川源流地方と同じく、ラワン住民とカチン独立軍の間に対立が起こり、村人はビルマ政府支持に回ったのだ。ビルマ軍とラワンの民兵が要所要所に駐屯しているらしい。支稜の背に家が八軒かたまるレー村から、ソマイ川上流方面の高い峰々が望めた。その山ふところにはどんな人たちが住んでいるのだろうか。

『新約聖書』によるイエス信仰の理論化

福音書作家がイエスを救世主として描いているにもかかわらず、イエスの言行それ自体を検討すれば、イエス自身はきわめて慎重な態度をとっていたことが見てとれる。もしくは老後とも形容できよう。頻繁に現れるのは、帰依者がイエスを救世主であると信じることをイエスが「否定はしない」という場面である。これによって、イエスは間接的に自らの救世主性を承認しているといえよう。これにはいくつかのバリエーションがある。そのひとつは、「あなたは救世主なのか」という問いに対してイエスがはっきりと答えない場面である。ユダヤ人たちが言った、「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今わかった。アブラハムは死に、預言者たちも死んでいる。それなのに、あなたは、私の言葉を守るものはいつまでも死を味わうことがないであろうと、言われる。あなたは、私たちの父アブラハムより偉いのだろうか。

彼も死に、預言者たちも死んだではないか。あなたは、いったい、自分をだれと思っているのか」。イエスは答えられた。「私がもし自分に栄光を帰するなら、私の栄光はむなしいものである。私に栄光を与えるかたは、私の父であって、あなたがたが自分の神だと言っているのは、そのかたのことである」。(『ヨハネによる福音書』第八章第五二-五四節)逆に、イエスが帰依者に対して「自分を何者であると思うか」と問い、「救世主である」という答えを得て、それを否定せず黙認する、という場面もしばしば登場する。そこでイエスは彼らに尋ねられた、「それでは、あなたがたは私をだれと言うか」。ヘテロが答えて言った。「あなたこそ救世主(キリスト)です」。するとイエスは、自分のことを誰にも言ってはいけないと、彼らを戒められた。(『マルコによる福音書』第八章第二九-二〇節、『ルカによる福音書』第九章第二〇-二一節にも同様の記述がある)このような細心の注意にもかかわらず、イエスとその教団はユダヤ教徒の社会と衡突する。「もしイエスを救世主と告白する者があれば会堂から追放すると、ユダヤ人たちが既に決めていた」(『ヨハネによる福音書』第九章二二節)。

救世主の到来とともに破局が訪れるという観念を信仰しているユダヤ教社会にとって、「既に救世主が到来した」と信じる集団が出現することは、社会秩序の危機を意味しただろう。イエスが十字架に掛けられ命を落としたとき、イエスへの帰依者の集団は、重大な岐路に立たされたといえよう。もしイエスが救世主であれば、本来は地上の悪の勢力を打倒するはずである。また、その登場に続いて終末が到来しなければならない。ところがイエスはなすすべもなく迫害に倒れ、終末も到来しない。イエスの刑死の後、教団が間近に迫ったとされる終末の到来をただ待ちつづけるのみであったなら、イエスもまた、数多くの偽救世主の一人として歴史の彼方に忘れ去られたことだろう。しかし、パウロを中心とした信者(使徒)たちは、既に到来した救世主=ナザレの人イエスが迫害に倒れたにもかかわらず世界は存続する、という現実を解釈可能にする信仰体系を構築してゆく。これによって救世主イエスへの信仰は「キリスト教」に発展したといえよう。新約聖書の形成とその解釈体系の確立によって、まず「イエス=人の子」という信仰が理論化された。福音書は、マリアの子イエスこそ『イザヤ書』に記される「インマヌエル」であると規定した(『マタイによる福音書』第一章第二三節)。

救世主が打倒されてしまうという矛盾は、「復活」の観念によって説明されるようになる。イエスは十字架の上での死から三日後に蘇り、使徒の前に姿を現したとされる。この「事実」によって、イエスが救世主であることが証明されたと信じられるようになったのである。そして、救世主イエスの十字架上の死を「人類の罪の順い」と解釈し、神の慈悲を強調した信仰体系を確立することにより、キリスト教はユダヤ教から離脱していく。こうして独白の「イエス=救世主(キリスト)」信仰を定式化した上で、救世主の出現後に世界が終末しないという事態に対しては、「再臨」の観念が提示される。「復活」したのち姿を消した救世主イエスが、世界の終末に際して「再臨」するという信仰である。このように「人類の罪の賄いの死」「復活」「再臨」という観念を救世主の出現と終末の到来の間に介在させることで、キリスト教の教義は、ユダヤ教とは異なる形で終末の到来を先送りし、現存の社会秩序への適合を果たしたといえよう。しかし「再臨」の思想は、キリスト教の終末思想の構造を複雑かつアンビヴァレントなものにした。この問題は救世主イエスの「既に」性と「未だ」性の対立として概念化されることがある。

救世主はナザレの人イエスとして「既に」到来したと同時に、終末の日に先立って再臨するという意味では「未だ」到来していない、ということになるからである。「既に」と「未だ」という背反する両極を内包したキリスト教の終末論は、大きな振れ幅を持つ。問題となるのは、「既に」到来した救世主と「未だ」到来しないその再臨との間をどう解釈するか、ということだろう。この解釈の問題は、キリスト教が地中海世界の支配的な宗教として発展し、四世紀にローマ帝国の国教となるに至って政治的な意味を増していったといえよう。将来に救世主が到来し、世界が破局を迎えるという信仰は、発展のしかたによってはむしろ政治秩序の破壊を待望する思想につながりかねない。終末が近い将来に想定されればされるほど、秩序にとっては脅威となる。特にこのような脅威を秘めるのが、「黙示文学」と呼ばれる文献群である。代表的なのは、紀元九〇年代に成立したとされる『ヨハネの黙示録』である。

軍事政権による二度の軟禁

一九八八年という年は、ビルマで全国規模の民主化運動が展開された年であった。一九六二年から二六年間続いたネウィソ率いる国軍主導型の社会主義体制に対する国民の不満が高まり、学生たちが先頭に立って、警察や軍によって弾圧されながらも根強く運動を盛り上げ、市民の合流を促していった。ビルマ独立の父アウンサンの娘が帰国しているというニュースは、学生たちにもすぐ伝わり、活動家たちは彼女の家に出入りするようになった。母の看病が目的で帰国したアウンサンスーチーであったが、彼らとの交流を通して、自分の愛する国ビルマが、大きく揺れ動く時期に直面していることを直感した。そして運動が同年八月を境に単純な反政府運動から民主化を求める運動にその姿を発展させていくと、彼女もついに表舞台への登場を決意する。彼女の公の場への登場は八月二四日のラングーン総合病院での短い演説が最初である。しかし、事実上のデビューはその二日後、八月二六日にシュ・ダゴソ・パゴダ西側広場で数万人を集めて開催された大規模な集会における演説であった。

ここで彼女は「この運動は、吊略」第二の独立闘争ということができます。(中略)私たちは(中略)民主主義の独立闘争に加わったのです」という有名な発言を行なう。この集会に集まった人数の多さからもわかるように、彼女の人気は当初から絶大で、運動全体を指導する人物の登場を待ちわびていた人々にとって期待の星となった。しかし、全国規模で盛り上がった民主化運動は、九月一八日に国軍が全権を掌握することによって多大な犠牲者を出し、頓挫させられてしまう。アウンサンスーチーは、軍事政権が政党結成を認めた同月下旬、ティソウー(一九七六年にネウィソによって解任された元国防大臣)らとともに国民民主連盟(NLD)を結成し、書記長に就任する。NLDは結成当初からその反軍政姿勢の強さのため当局から極度に警戒されたが、彼女は妨害を受けながらも精力的に国内各地を回って遊説し、翌一九八九年六月には「大多数の国民が同意しない命令・権力すべてに対して、義務として反抗しなければならない」という、西欧の政治思想で培われた市民的抵抗権とは異なる市民的抵抗義務を主張するようになった。

もっとも、ここでいう「反抗の義務」とは、「非暴力による不服従の義務」を意味し、軍政側が彼女を批判する際に用いた「市民に暴力的反乱を煽った」とする見方は正しくない。彼女は一九八九年七月、ヤンゴン市中心部における演説で父アウンサンが国民のためにつくりあげた国軍を、ネウィソら幹部が間違った方向に導いていったという主旨のネウィン批判を展開し、結局それが直接の原因となり、同月二〇日、軍政によって国家防御法を適用され、自宅軟禁に処されてしまう。この国家防御法とは、治安を乱す恐れがあると当局が認定した者を拘束できるという法律である。本来なら刑務所での拘束になるが、「独立の父アウンサン将軍のお嬢様であるため」との「特別」の理由で、自宅軟禁という措置にとどめたと軍政は説明した。軟禁は六年間続き、軍事政権は海外に出るのであればすぐに解放すると伝えたが、彼女はいっさい応じなかった。

軟禁当初、逮捕された多数の学生活動家たちに対する不当な取り扱いに反発し、一一日間にわたるハンガーストライキ(絶食闘争)を行ない、当局から「拷問は行なわない」旨の約束をとりつけるということもあった。夫マイケル・アリスと二人の息子たちの訪問は特別に二回許されたが、軟禁二年目以降はまったく認められなくなった。軟禁中の生活は、短波ラジオの受信が認められたため、英国国営放送(BBC)の国際放送(英語およびビルマ語)をきくことはできたが、新聞・雑誌は自由に読むことを許されなかった。生活費は、軍政が援助を申し出たものの、拒絶し、夫からの生活費援助も受け取らず、家具などを売り払って竹の子生活を自ら送った。訪問者は日帰りで通う家政婦のほかは、数週間に一回、軍政側の情報将校が訪ねてくるだけであった。この将校も、軍政側からの通達事項をいうほかは、政治的対話には応じず、彼女の健康状態などを確認するだけであったという。アウンサンスーチーはしかし、毎朝四時に起床し、仏教に基づいた内観瞑想を行ない、そのあとは読書や著述、室内運動をして、夜は早く就寝する規則正しい生活を送った。

解放されたあと、党務や海外マスメディアへの対応で多忙をきわめた際、「時間が豊かにあった軟禁中が懐かしい」とユーモアの効いた感想を語ったほどである。軟禁三年目の一九九一年二月、彼女は非暴力による民主化運動の指導が評価されて、ノーベル平和賞を受賞する。ある関係者の説明によると、ノーベル平和賞選考委員会は当初、チェコの「ビロードの革命」(一九八九年に起きた共産党一党支配からの無血民主革命)を成功させたハヴェル大統領を第一候補として検討したが、それを伝えきいたハヴェルが、自分よりも、今現在、非暴力の手段を用いて民主化闘争を続けているアウンサンスーチーを優先してほしいという意向を示し、その結果、彼女に平和賞が授けられることになったという。彼女のノーベル平和賞受賞は、国際社会(特に欧米)のビルマへの関心を一層高める結果をもたらした。しかし、軍事政権は受賞の事実を無視し、国内でもいっさいその報道を許さなかった。国民はBBCやVOA(アノリカの声)のビルマ語短波放送を通じて彼女の受賞を知った。軍政は当時、ヤンゴン市内の「ノーベル」という自動車部品販売店の名称まで変更させるという、極めて神経質な対応をとっている。

タクシノクラシーの特徴

タクシノクラシーの特徴は次の三つである。第一に、国家を企業と同一視し、政治運営に企業経営のやりかたをそっくり導入したこと。第二に、あらゆる国家機関や公務員に「ビジョン・ミッション・ゴール」を要求し、その意図や努力ではなくパフォーマンスによって評価しようとしたこと。第三に、都市と農村という二分法ではなく、都市部の大規模ビジネスと農村部の草の根経済の双方の振興を目論む「デュ・アル・トラック政策」、もしくは「両面作戦政策」を採用したこと。以上の三つである。タクシノクラシーの第一の特徴は、「国は企業である。首相は国のCEOである」という彼自身の政治観に端的に示されている。ここでいうCEO(経営最高責任者)とは、組織の人事権と最高意思決定権の双方を掌握する責任者を指す。そこから国を束ねるのはCEO首相、省庁を束ねるのはCEO大臣、県行政を束ねるのはCEO県知事(プウ・ワーCEO)、外交を主導するのは各国の大使館のCEO大使(トゥ・トゥCEO)という発想が生まれた。

CEO首相という発想は、連立政権時代の「首相のしごとは閣僚ポストの配分」という「弱い首相」に対抗し、国家戦略を策定する最高責任者としての「強い首相」をアピールするためのものである。同様に、CEO県知事は、チュワン政権時代の地方分権化政策に対抗し、県行政の中央集権化を目指したものである。CEO大使は、外交の仕事を外務官僚から政治家に移すことを狙ったものであった。政治への企業アプローチをより端的に示すのは、タックシン首相の公的債務(政府の対外借入)に対する姿勢であろう。彼は電気通信の企業を運営する際、銀行からの借入を極端に嫌い、内部留保、社債、株式にもっぱら依存する直接金融方式をとった。国家財政についても、借金(対外借入)ではなく、自前の資金調達(国債の発行や民間資本の活用)を主張した。実際、彼は対外債務の抑制を指示し、外国からの経済援助をきっぱりと拒絶した。その結果、GDPに占める対外借入の比率は、二〇〇〇年の五八%から○四年の四八%に一〇ポイントも低下した。

ところで、タックシン首相の政治理念は、ソムキット・チャ・トゥシ・ピタック教授の発想に拠るところが大きい。ソムキットは、アメリカのノースウェスタン大学経営大学院(ケロッグ校)で博士号をとって帰国したあと、開発行政大学院(NIDA)で経営学を教えていた。そのかたわら、大手民間企業のマーケティングのコンサルタント業務を行い、ビジネス界では経営戦略のエキスパートとしてつとに知られた人物である。このソムキットが、経営雑誌に寄せた「未来の指導者像」と題する論文(一九九六年)が、タックシンの目を惹く。ソムキットはこの論文の中で、タイが直面している世界を、軍事競争ではなく経済競争の時代、改革が必要とされる時代、技術が主導する時代、新世代が活躍する時代と捉えた。そして、新しい時代のリーダーの要件として、明確なビジョン、新しい知識、企業家精神、グローバルな発想を指摘し、「アジア地域のリーダー」の登場の必要性を説いた。この論文はタックシンの政治理念に理論的根拠を与え、逆にタックシンは、ソムキットをタイラックタイ党の党経済政策担当の中心メンバーにすえ(九七年)、ついで二〇〇一年二月の組閣の時には財務大臣に迎え入れるのである。

タクシノクラシーの第二の特徴は、政府機関に対する「ビジョン・ミッション・ゴール」の要求である。タックシン首相は、すべての省庁、部局、国営企業、公立の学校や病院・保健所に対して、自分が指示する国家戦略に照らして、決められた期間に何を構想し(ビジョン)、何を任務と考え(ミッション)、何をなすべきか(ゴール)、この三つを文書で明確にすることを求めた。この点は、行政や教育サービスの質の向上と効率化を図るために、官庁や大学に「中期目標・中期計画」の設定と「第三者評価」の実施を要求した日本とまったく同じである。この方針で重要であったのは、国の政策指針を従来のように開発計画ではなく、首相の所信表明やタイラックタイ党の政権公約に依拠した点である。タックシン首相は演説の中で、「政治を主導するのは官僚ではなく政党である」と繰り返し主張した。その具体化が、官僚が策定する開発計画を首相が決める国家戦略に替えることであった。タクシノクラシーの第三の特徴は、デューアルートラック政策(両面作戦政策)である。この政策の骨子は、タックシン首相自身の説明によると次のとおりである。「タイがその潜在的な国力や経済力を発展させていくためには、輸出の拡大と通貨の安定が不可欠であり、外国資本の呼び込みがきわめて重要です。しかし、外国資本から利益を得るのは都市部のビジネスだけです。

一方、農村部の草の根経済は、機会さえ与えれば十分発展する潜在能力を持っています。ですから、彼らの能力を十分に引き出すために、政府は投資資金やマーケティングの面で支援しなければならないのです」(二〇○三年九月八日、フィリピンのマニラでの演説)。この草の根経済振興が、のちに紹介する村落基金や一村一品運動(OTOP)に代表される。コミュニティ・ビジネスの振興であったことは明白であろう。注意すべきは、タックシン首相が主張する草の根経済振興が、都市と農村の間の格差是正を目的とする従来の政府の地方支援政策とは異なっていた点である。彼が問題にしたのは、農村や農民が貧困に陥っているという「結果の不平等」ではない。都市部と同等のビジネスチャンスや資金が彼らにないという「機会の不平等」のほうであった。その結果、投資資金を支援するために村落基金や人民銀行の構想が、マーケティング能力を向上させるために一村一品運動の構想が、それぞれ浮上する。国民を「消費者」、農民を「経営者」と捉える彼独自の政治への企業的アプローチが、ここには反映しているのである。

タイ経済の発展とリスク
タイ経済の発展が著しい。1人当たりGDPは約4000ドルと韓国や産油国よりも低いものの、それらを除くとトップクラスである。

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タイは日本の台所

一九九三年初めに訪れた、南タイのハジャイ近郊にある地場資本のツナ缶詰工場は、世界で第四位を誇る巨大規模の工場だった。従業員数は三〇〇〇人(二交替制)。ここでも手作業はすべて若い女性が担っている。日本と違って機械が入っているのはツナを缶に詰めるパッキングエ程だけで、マクロの頭や尻尾の切断、魚身を三枚におろす作業、血あいの部分を包丁でていねいにそぎ落とす作業はすべて手で行う。日本では労働力不足もあって、一日の賃金は六〇〇〇円をこえるが、この工場では一日九四パーツ(四七〇円)であった。九四パーツは、政府が決めた当時の南タイの最低賃金である。作業がきついため、一年間に従業員の約四割が工場を辞めていくという。しかし、ハジャイやソンクラー県には、水産工場以外みるべき工場がないため、女性労働者の補充にはとくに支障はないというのが、アメリカで経営学修士を修めた若いタイ人経営者の答えだった。

結局、私たちの身の周りに存在するタイ製品は、その多くが器用で安価な手作業を大量に必要とし、かつ、機械による自動化や省力化ができない製品で占められているといえよう。この点は、内臓の抜取りや力ットが必要な加工鶏肉、頭や背わたの皮むきが必要な冷凍エビ。小骨を一本一本毛抜きで抜くところまで担当するあじのひらきなども、まったく同じである。こうした日本向け食品輸出・加工に特化している経済体制を指して、「タイは日本の台所」と呼ぶタイ人もいる。逆に日本の側からすれば、台所で私たちが行っていた料理や手先の作業をタイ人に委託していることになる。つまり、タイは農水産物を輸出しているだけではなく、「手から先の労働」も日本に輸出しているのである。一方で、電子レンジの登場が調理直前の食品や冷凍食品の普及をうながし、他方で、ファミリー・レストランや持ち帰り弁当に代表される外食産業の発展が、手間のかかる料理を日本の台所から追放していった。こうした状況が、タイを[日本の台所]に変えてきたのである。

日本の食卓にのぼるタイ製品の多くは、アグリビジネス・グループによって支えられていると同時に、NAIC型工業化の中心的な担い手も、アグリビジネスだった。それではアグリビジネスとは何なのか。アグリビジネス(agribusiness)というのは、簡単にいうと次のように定義することができる。つまり、特定の農水産畜産物の、①買付け・集荷、②製造・加工、③製品の貯蔵=倉庫・サイロ・ターミナル施設、④国内販売・輸出の四つの段階のすべてもしくは大半を、同一の資本のもとに統合するような経営形態がそれである。さきに紹介したブロイラーを例にとると、配合飼料の生産、種鶏の生産、コマーシャル・チックの孵化と契約農家への供給、鶏舎の設計・建設、ブロイラーの買取りと解体処理、ハムやつくねなどの食肉加工、輸出・販売のすべての工程を垂直的に統合したような企業グループが、アグリビジネスである。CPグループなどはその典型といってよい。同じく、ヨーロッパ向けの家畜飼料になるタピオカも、バンコクに拠点を置く少数のアグリビジネス・グループが支配する。タピオカの原料であるキャッサバの買付けから始まり、加工、大量の貯蔵、輸出の全工程を、スンフアセン(順和成)、タイフア(泰華)、メトロ・グループなどが統合していた。

ところで、アグリビジネス・グループは、決して単独で発展してきたわけではない。むしろ、次のような三つの支援を得ることによって、短期間に発展を遂げることができたといえる。その第一は、政府の政策的支援である。タイ政府や投資委員会は、第四次開発計画期(一九七六-八一年)から本格的に、輸出向けアグロインダストリーに対する投資奨励を行い、税制上の恩典をこうしたグループに与えてきた。ブロイラー、パイナップル缶詰、オイルパーム農園(食用油、石鹸、アイスクリーム用チョコレート、化学製品などに利用)とその加工工場などは、政府の奨励を受けて発展した代表的な例である。第二は、地場の商業銀行の資金的支援である。彼らは、農産物の買付けや巨大倉庫の建設、輸出に必要な莫大な資金を融資するだけでなく、例えば、養鶏・養豚農民や砂糖きび栽培農民に対しても運転資金を提供し、アグリビジネスの発展を直接・間接に支えてきた。アグロインダストリーに集中的に融資を行ってきたバンコク銀行やタイ農民銀行の存在を抜きにして、彼らの発展を語ることは到底不可能である。

第三は、多国籍製造企業や外国商社の技術と市場面での支援である。ブロイラーの原種・種鶏、養殖エビのプランクトン、ブロイラーやエビの輸出に必要不可欠な瞬間冷凍装置といった新しい技術の導入には、例外なく欧米や日本の企業、そして商社が介在した。さらに、これら製品の海外市場の開拓においても、外国商社は大きな役割を果たしてきたのである。アグリビジネス・グループは、以上三つの支援を受けつつ、養鶏農民やキャッサバ栽培農民など生産農民を、自分たちの事業の一部に組み込んでいった。それはまさに、タイの農業が資本に統合される過程ともいえた。資本による農業の統合をもっとも端的に示しているのが、一九八〇年代以降、急速に普及している契約農業(contract farming)である。冒頭で触れた日本の「開発輸入型」の農水産物や畜産物の加工品などは、そのほとんどが契約農業によって実施されているといっても過言ではない。

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